月待の滝 もみじ苑
昭和59年に喫茶店からスタートしたもみじ苑は
日本一やさしい裏見の滝「月待の滝」を見ながら
自家製粉のこだわり蕎麦と自家焙煎の珈琲をたのしめるお店です。
昭和59年に喫茶店からスタートしたもみじ苑は
日本一やさしい裏見の滝「月待の滝」を見ながら
自家製粉のこだわり蕎麦と自家焙煎の珈琲をたのしめるお店です。
昭和50年代(店主が中学、高校、20代当時)までこの滝は地元でもあまり知られることなくひっそりと佇む隠れた存在の滝でした。私の父、義次は先代と共に戦後の大変な時期にこの滝の水を利用した水車で精米を行い生計を立てておりました。後に電気を使ったモーターの工場を自宅に新設するまでの間、この滝壺で近隣の地域から馬で運んだ籾を精米していたそうです。私が小学生に上がる(昭和40年代前半)頃にはその当時の水車は既にありませんでしたが、自宅前から川に降り大きな石がゴロゴロ転がっていた小川をてびしゃぎ(両手で岩の下を挟み込むようにして魚を取る漁法=地元の方言?)をしながら上流を目指すと大きな岩やススキの間からこの滝が忽然と現れた時の感動は今でも忘れません。ひっそりと誰にも見られぬように佇み穏やかに流れるその滝壺に入ってよく遊んだものです。
やがて、私も成人し地元企業に一度は就職したのち父の家業(製麺と製粉業)を手伝うことになります。が、大子という小さな町で生きていくためにはこのままで良いのか・・大きく悩むことになります。そんな時に子供の頃から親しんだこの小さな滝が(県や町が全面的にバックアップし大子の顔として大きく君臨する袋田の滝に対して)、大きな自己主張もせずいつも静かにじっと耐えて流れている様に感じたこの滝をなんとか世に出してやりたい、沢山の人に見てもらいたいと思うようになります。
20代前半に友人達と作った珈琲愛好会(ジャスミン)では、各地の焙煎豆の飲み比べや炭火焙煎等で珈琲に親しみ東京銀座のランブルやバッハなど名店に足繁く通って口を肥やしました。そうこうしているうちに、いつかは珈琲屋をやってみたいと思う様になります。やるならあの滝の滝壺でやりたい・・そう思うのに時間はかかりませんでした。25歳での店の開店を目指して準備をし、滝の降り口にある明治11年建立の月待信仰の二十三夜塔(石碑)、昭和28年初版発行の文献、奥久慈膝栗毛・・の中にあった(嵯峨草の月待の滝、子午線岩等を含めた八カ所を川山の見落し八景という・・)というのを確認し、この滝は月待の滝である・・と名前を発表し、月待の滝もみじ苑の開店に至ります。
昭和59年4月15日 月待の滝もみじ苑開店(店主25歳)
昭和59年4月開店のもみじ苑は、当初から(あんな場所でやっても客なんて来ないよ・・、すぐ潰れるよ・・)と周囲から笑われ、惨憺たる(1日の売り上げは2000円足らず・・の)スタートでした。
それから数年、何とか頑張っているとメディアにだんだん取り上げられるようになり、蕎麦の勉強、研究の成果もありお客様が店に入りきれないようになります。外で待つお客様に何とか席で座って待って頂こうと平成8年に流しそうめん設備を備えた二階増築に踏み切りました。
二代目もみじ苑二階増築開店(平成8年4月15日 店主38歳)
二代目もみじ苑はお客様が店に入りきれなくなったため、苦肉の策で2階建てとし、流しそうめんを追加して蕎麦への集中を分散させようとしました。しかし、大きくなった分お客様も増え過ぎ、結局は時間がかかる・・待たされる・・という残念な評判になってしまいました(泣)。
※ もみじ苑は、1階、2階あわせて100席(屋外席含む)近い席数があります。長い待ち時間を椅子に座って待って頂ければ・・との思いからの増席・増設?でしたが、多くの御客様からご不満の声を頂いております。大変申し訳なく思っておりますが、納得のいく商品を作りたいと思います。何卒ご理解の程宜しくお願いいたします。待ち時間が長いときは是非また違う機会においで頂ければ幸いです。
【昭和59年に開店したもみじ苑は、すぐに、この月待の滝と共に一心同体で世に出て行きたい、と滝の名前を店名とし〔月待の滝もみじ苑〕として、また月待信仰の茶屋〔月待茶屋もみじ苑〕として滝共々全国に知ってもらえるように努力を続けております】
その後毎年毎年もみじを植え続け、もみじの集落・もみじ村としても春夏秋冬多くの御客様においで頂けるようになりました。この『もみじ村』は月待の滝もみじ苑の登録商標です。
昭和初期までこの水車で精米等をしてました。電気が引けるようになり現自宅にモーターの工場を作ってからはこの地は藪に埋もれることになります。
もみじ苑開店に際してと、その後の不思議な不思議な・・体験談
話せば長くなるのですが・・
1,不思議な体験その1・・・小太郎茶屋(小太郎ヶ淵)との出会い
私がこの店を開店、及び維持するにあたり大変不思議な体験が2つありました。1つはこの地での開店をまだ決めかねていて周りの反対もあり本当に不安だった時期の22~24歳の頃の事。私はこんな山奥の滝壺で商売としてやっていけるのかどうかを確認したくていろいろな情報を参考にしようと栃木や群馬の山奥で商売をしている店等を探し歩きました。探し歩くうちに栃木の山奥である看板に出会います。
〔名勝 小太郎ヶ淵〕・・・
(大変有名な場所なので知っている方も多いでしょうが・・、)当時、今にも朽ちそうなその看板は塩原温泉から八方ヶ原高原に向かう途中の山道のカーブの足元にありました。普通なら見過ごすか、見ても気にせずに通り過ぎてしまうような寂しそうな(笑)看板でしたが、私はこの看板に異常に気を取られたのです。何故なら・・、私が高校を出て地元会社に2年間勤めた時の社内でのあだ名が(小太郎)だったからです。神様が(おい、小太郎よ・・、この寂れた看板にある小太郎ヶ淵に行って見て来てみな)・・そう言われたようで、恐る恐る急で荒れた坂道を降り始めました。着いた先には名勝小太郎ヶ淵があり、その岩場の斜面に建っていた2階建ての小太郎茶屋に感動と衝撃を受けました。早速名物のだんごとおでんを注文。ご主人に梳かさず(冬とかお客様は来るんですか?)、ご主人(こんな場所でも雪が降らなければお正月なんかはお客さん結構来るんだよ・・)。たったのこの会話だけでしたが・、
この言葉を聞いてもみじ苑開店の決断をしたのです。今でもたまに伺って師と仰ぐ名勝の味と雰囲気を勉強させて頂いてます。本当に私の人生を変えてくれた素晴らしい店に出会えたと不思議な出会いと体験に感謝しております。〔もみじ苑開店を決断させてくれた店〕です
2,不思議な体験その2・・・日本一の蕎麦屋〔翁〕との出会い
世の中には奇遇というか、偶然というか不思議なことが多々起こるものです。私がこのもみじ苑を語る上で常に頭に浮かぶこの2つの偶然は自分の中では神様の有難いお導き・・と信じてやみません。 上記の小太郎ヶ淵の件とこの二つ目はもみじ苑を維持していく中で決して忘れてはならない事だと信じてます。
私がこの滝の滝壺で店を出す決断をし建物の建築に入る前に家相を見て頂くことになりました。その方の見方は大変当たるらしくて慎重に、まだ滝壺の整地が終わったばかりの地に案内をし丁寧に見て頂きました。(ここは南の方からお客さんが沢山来るようになるよ・・)とか(こちらにトイレを作るといいよ・・)とか・・。その中で大変気になった事を言われました。(この滝に翁滝と名前を付けるといいね)・・と。既に滝には月待の滝・・という名前があるので私は軽く流して聞いておりましたが・・。
やがて開店して数年が経ち自分の店が珈琲屋なのか観光地のただの食堂なのか(この先一体自分はどういう店を目指せばいいのか?)で悩んでいた時にある情報が耳に入ります。(山梨の山の中で大行列を作る翁`おきな`という蕎麦屋がある。その日本一と言われる蕎麦屋の店主が茨城の県北の蕎麦が日本で一番美味いと言っている・・。)と。私はここでもその不思議??を感じます。えっ、おきな??翁ってあの家相師が言ってたあの、翁??じゃないの・・。ひょっとして神様は(お前はその翁・・と言う蕎麦屋に行って蕎麦の勉強をしてこい・・。)と言ってるのだと思い、すぐに翁に電話をし(蕎麦の勉強をしたいので見学させて頂けませんか?)と問います。旦那さんは快く(ああ・・いいよ、朝の4時からやっているから・・)。それから毎年通って指導を仰ぐことになるのですが(私は修行に入った弟子という立場ではありませんが勝手に師と仰いでおります・・笑)この貴重な体験が今のもみじ苑の骨格を作ることになり、この翁(当時の、現在は達磨)との出会いがもみじ苑の将来を決める事になりました。昭和63年当時のことです。
この2つの何とも不思議な出会いときっかけが現在のもみじ苑を作る土台となり、沢山のお客様が来て頂ける店にすることが出来たと思っております。多分、月待の滝の神様が全て仕組んでくれた事なのだと今更ながら・・、この滝に感謝しているところです。